ポンド危機の経緯とその後のイギリス

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EMSとERMの設立

1970年代のドルと金の交換停止による固定相場制の終わりにより、為替相場に乱高下が起こり、ヨーロッパの通貨を安定させたいという目的やインフレの安定を目指すという目的からEMS(ヨーロッパ通貨制度)が作られた。

そして、その中にERM(Exchange Rate Mechanism 為替相場メカニズム)が作られる。

内容は、ドイツのマルクを中心として、各国の通貨を一定の割合で取引、通貨が許容範囲を超えるような場合は、中央銀行同士で協力して協調介入し、通貨の安定を図るというもの。

ところが、経済の強いドイツに他の弱い国が合わせるという形になり、経済力の弱い国には負担が大きくなっていった。

イギリスのERMへの加盟

当時のイギリスの首相マーガレット・サッチャーは自国の金融政策と為替目標も両立が不可能であること、加盟すればポンドが投機対象になることを認識していたため、ERM加入へは反対であった。

しかし、1990年、ERMにイギリスが加盟することとなる。

加盟の理由

インフレの抑制

1980年代後半、イギリスはインフレが問題になっていた。当時、ドイルのマルクは強くて安定した通貨であったので、ポンドもマルクに連動すればインフレを抑制できると考えた。

経済政策への信頼回復

サッチャー政権の半ばから、経済政策に対する信頼が揺らいでいた。そこで、ERMに加盟すれば外部のルールに縛られることにより、政策の信頼性が高まると考えた。

ヨーロッパ経済統合への参加

ヨーロッパの通貨協力に参加することにより、政治的にヨーロッパの他国と歩調を合わせる必要があった。

国内の政治的要因

当時の財務省のメージャーが加盟を強く推した。その後サッチャーや辞任、メージャーが首相となる。

加盟後の推移

ERM加盟後、1ポンド=2.95ドイツマルク前後に相場を設定。

この頃、ドイツは東西統一でさらに景気が強くなり、インフレを抑制するために高金利を続けていた。ところが、イギリスは景気が悪く、失業率が高い状態。さらには不動産バブルが崩壊しつつあった。

ドイツの高金利により、マルクの価値が高いため、それに合わせるためにポンドもイギリス国内が不況にも関わらず、高金利を維持して無理をしてついて行くという構図になった。

ジョージ・ソロスのポンド売り

イングランド銀行の金利の上昇は、さらにイギリス経済を悪化させた。しかし、ドイツ連邦銀行はポンド防衛に協調なかった。

その事態と実際の価値以上に値段がついているポンドに目をつけたクォンタムファンドのジョージ・ソロスは大量のポンドのショートを仕掛けた。

イングランド銀行は、公定歩合を10%→12%→15%と無理矢理引き上げたが、ポンドの下落は止まらず、イギリスはERMを脱退。ジョージ・ソロスは10億ドル〜20億ドルの巨額の利益を上げる。

イギリスの発展

結果、変動相場制になり、その後もポンドは2年以上も下落を続け、金利も自由に下げられるようになり、インフレも抑制され輸出も後押し、大きな経済回復のきっかけになりイギリスの安定成長期に入って行った。

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